ハジケ。

体に栄養を、心に刺激を。

考察厨ふたり

 昨夜つらつらと書いたエッセイにある通り、思考する練習をしたいと思ったので日常のあれこれについて考えてみる。

 

 今日は、幼馴染tと友人pを引き合わせた。前々から話し方や物事への興味の持ち方、思考の癖が似ていると思っていた二人だ。なんだか数学の文章題のようになってしまった。

「はじめまして、よろしくお願いしますー」

と初対面の儀式をぎくしゃくしながら済ませていたのは少し面白かった。

早速居酒屋に移動して、乾杯。

 

 きっかけとしては、現在も放映中の「プロメア」について語るということだ。

tはプロメアの監督作品を随分前から追っていて、熱心なファンだったからこそ語る相手を探していた。そしてpもいつの間にか劇場まで見に行き、どっぷりとはまってしまっていた。両方の知り合いであるわたしが、面白半分によく「語りたがる」二人を引き合わせた次第である。

 

 さて、とpが口を開く。

「人工呼吸するシーンが2回あったけど、あれって何の比較?なんの意図があるの?」

初っ端から細部に切り込んでくる。

「愛があるかどうかの違い?そのあとの爆発シーンもハートを模してたけど」

え、そうでした?

 

話を聞きながらそうだったかなあと、私が記憶を探っている間に、tもpの提示に乗りどんどんと議論を深めていく。

 

プロメアは差別を描いた映画なのか。確かにガロの「バーニングも飯を食うんだな」発言は差別だったけれど、あれはのちのちのガロの意識の変化を描くための意図的な提示に過ぎない。最終的には悪役のクレイも助けられるところも含めて、差別ではなく、全員のことを肯定するのが根底にあるのではないか。

例えば、リオの中性的な外見や、軍人の小人症について不自然なほど触れないように、外見的な要素からくる差別発言は徹底的に除かれていた。現代の映画として素晴らしい態度を示した。

 

もうね、議論が止まらないとまらない。二人は初対面なのに、どんどん私を置いて二人で話を進めていく。

傍で聞いていて、「あ、たしかに」とか「あれにはそういう意味があったのか」とか理解することはできる。だけど、同じペースで「あの表現ってどんな意味があるの?」と疑問を投げかけることはできなかった。

 

基本的に映画を見るときも、そのときそのときの自分の感情とか、ストーリーとして面白いかどうかとか、良くも悪くも娯楽として楽しんでいるに過ぎないんだろうなあ。ふたりみたいに、映画をきっかけにして思考を深めるとか、ちゃんとした刺激として生かせていないんだろうなあ、と自分の脳みその硬さを反省。

 

私も話題提供者になりたい、と思って「クレイの左腕が生えてきたのには何か暗示があるのかな」と言ってみた。二人とも困惑した表情。いやあ、あれはバーニングだから生えてきただけであって……。と解説を始める。いやそれくらいわかってるよ。

二人曰く、クレイの「間違い」の象徴である左手の義手を外して、バーニングとしての力を開放して再構築した。それって、今までどこかにあったガロへのうしろめたさを振り切って、力づくで「間違いではない」ということにしたいクレイのいしがあったんじゃないかなとか思って、降ってみたんだけれど。

まあよく考えてみたら、私別になにひとつ新しいこと言えてないか。なんとしてでも押し通す、っていうのは映画見てれば分かることだし、それをちょっと言葉にしてみただけに過ぎないかも。

あとは話の振り方とか、私の説明の仕方も拙かったかな。実際の場ではここまで整然とクレイの左腕について話せなかったわけだし。

 

途中でふたりが映画を見ているときのスタンス的な話もちらとしていたんだけれど、

「映画を見ながら常に考察をしてしまう」

という事で一致していた。すごいなあ、と素直に感嘆。私は映画を見るときは、基本的に与えられるところしか見ていないし、話を理解するというそれ以上に考えようとはあまりしていない、気がする。

 

映画とかアニメとか、それを通して伝えたいことって絶対何かしらはあると思うし、娯楽として受け取るだけではちょっと損をしているのかもしないと思った。映画としての面白さだけではなくて、その余白まで自分で絵をかいて楽しむ、というか。そういうところが二人にはあると思う。

 

「考察厨だから」

と自虐的に語っていたけれど、そう思ってしまうくらい自然と思考を回せるって言うのは本当にすごいことだと思う。

考察厨になりたい、とは言わないけれど。こういうときに疑問を提示して自分の意見を述べられるようになりたい。多分そのほうが、何倍も映画を楽しめるはず。