ハジケ。

体に栄養を、心に刺激を。

決められないという病

 大学四年生の六月。「就活生」であるわたしにとって、本当に苦しい時間だった。

 元々人当りもよく、学歴も初対面の人に「すごーい、頭いいんですね」といわれる程度の大学に通っていて、バイト先の副店長にも「はこむさんはさらっと終わるタイプでしょ」と言われていた。そしてわたしは、その何の根拠もない予想を鵜呑みにしていて、「働く」とはどういうことかをここに至っても全く真剣に考えていなかったように思う。

 三月一日。所謂「解禁日」である。この日、一斉に開かれたリクナビマイナビの説明会の申し込みにわたしも周りと同じように従った。朝起きて、「そういえば今日か」と思うようなのんきぶりだった。

 「解禁日」を迎える前から、それも去年の夏あたりから第一志望の会社はあった。地元で働けて、かつわたしの好きな本に携われる小さな出版社。そこの目星をつけて、というかつけすぎて、そのほかの会社にはあまり行きたいとも思っておらず、かつそれ以上会社を探すこともしなかった。

 働いている人がキラキラしていて、向上心にあふれていて、楽しそうに仕事しているのが印象的だった。わたしはここに入るんだ、と思って、「私は一月○○件もとったぞ」「私はそれよりも取ったから」と競い合う営業に少し躊躇するような気持ちがわいてくる素直なわたしの気持ちも聞けなかった。

 夏と冬に2度インターンシップに参加していたからか、運よく第一志望の会社の選考はするすると進んだ。いや、今から考えると進んでしまった、というべきかもしれない。

 他の企業は、まあ受けておかないとなという義務感から10ほどエントリーをして、特にやる気もないまま選考に向かっていた。それでも、地元の中小企業だし、私は優秀だから採ってくれるでしょ。むしろ内定いっぱい出てしまったほうが迷うし、絞ったほうがいい。傲慢すぎる就活生だった。ほんとうに殺してしまいたい。

 案の定、ろくに自己分析も、企業研究もしないまま惰性で向かっていた企業には、次から次へとお祈りメールを食らった。普通ならここで、「このままじゃだめだ」と考えるはずなのに、第一志望には自信があったため特に何の対策もしなかった。

 バカである。

 その馬鹿さ加減、「働く」ことをなめ腐った態度というのはやはり相手に伝わるもので、第一志望の最終面接。社長との一時間の面接で、とうとう化けの皮が剥がれ落ちてしまった。社長との波長が合わないまま、いつもは嘘だけはつかないようにと心がけていたのに、「TOEICで800点とるつもりですー」とか見栄ばっかり張って。腹の探り合いをしただけで、会話もできなかった。

 結果、1週間後に来たのは「今回はご希望に添えない結果となりました。」の一文だった。ものすごくショックだった。漠然と思い描いていた自分の未来が一気に遠のいていって、何も見えなくなった。

 そこまでいってようやく、他の企業に何としてでも受からないと!と気合を入れることができたけれど、重たい腰を上げるのが遅すぎた。本当に自分がしたいのは何か、何ができるのか。本来ならしっかり見えていなければならない本質の部分が、この時点で真っ暗になって何もつかめなくなった。

 志望動機をしっかり作りこんで、暗記するほど練習した。お祈りメールが来た。

 たまたま一次面接で通過していた最後の企業の最終面接。「もう後がない」と思いすぎて、声が震え、言葉だけがからからと滑っていった。「適正テストもよかったですよ」と言われていたのに。2週間を過ぎたころ、ポストに郵便が届いた。お祈りの手紙だった。

 自分の就活を振り返って、いま、涙が出てきた。情けないにもほどがある。自分は何がしたかったのか、どんな風に働いていきたかったのか。それが明確にないまま、ただ「就活ごっこ」を興じていたにすぎない時間だった。本当にバカだ。

 

 そして六月を迎えた。大手の企業の内定が次々と出て、まわりの友達は「弊社」と誇らしげに言える内定を得ていた。

 翻って私は。

 頭も動かさずに、ただただ足だけを動かしていたこの3か月間。(インターンも含めるとそれ以上か)私の手のひらに残っていたのは、「ここなら絶対に受かるだろう」と見越して練習につもりで受けた地元の、慢性的な人手不足に悩む中小企業だった。

 一番最初に得ていたけれど、まあ、いかないだろうと見ないようにしていた内定。3月にエントリーしたすべての企業が零れ落ちていったあと、かろうじて残ったこの会社を見つめざるを得なくなった。

 正直なところ、人事の人も「最近は内定辞退もありますから、気にしないでくださいね」といってくるような、人気とは程遠い企業だ。本社も古ぼけているし、説明会には私ともう一人しかいなかった。

 旧帝大現役合格、生徒会長。いつの間にか肥大化し続けていたプライドが悲鳴をあげていた。

「本当にこんなところでいいのか」「ここまで来てもったいないと思わないか」「そもそもやりたい仕事なのか」

次々とプライドの塊が私の心を攻撃してきた。「でも」一方で、めそめそとしたこんな声も行き交った。

「人事の人本当にやさしいし」「実家でゆるりと暮らせる」「最初はやりたくない仕事だけど、広報に映れるかも」

なによりももう、「就活続けたくない」。

 

 本当に決められなかった。自分で選んで、自分で受けて、自分で獲得した内定。誇るべき会社なのに、動機が曖昧だったせいで誇ることができない。すべて自業自得だったが、第一志望に落ちた時点で私はこうなる運命だった。それくらい、自分のことをしっかりと見つめることができていなかった。

 自分で決められないから、人からの評価を気にした。まずは転職サイトや知恵袋でどんな評判なのかを調べた。ことごとく酷評だった。(今思えば、人はわざわざ「いいよ」とは書きこまないし、ネガティブな言葉が多くて当然だ)

 転職しづらいらしいと聞いて、もし自分に合わなかったらどうしよう。その先の道はあるのか。と考えても仕方ないことを延々に考えて、眠れない夜が続いた。

 そうして一度考え始めると、すべてが不安になった。転職するにはキャリアアップするためのスキルが必要らしい。わりと公務員的な企業だからスキルなんて身に付きっこない。そもそも体力仕事なのに大丈夫なのか。

 お母さんに泣きついて、お父さんに愚痴って、お姉ちゃんに意見を聞いた。全部人の意見だった。そこに自分の意思なんて一つもなかった。

 毎日毎日泣きついて、ある夜おかあさんに、

「そんなに嫌ならやめれば。自分で決めないと意味ないやん」

と突き放された。奈落に落とされたような気持だったけど、同時にありがたかった。背中を押してくれているのが分かったから。

 皮肉なことに、ここにきてようやく、自分がやりたいことは何かを、自分の脳みそを動かして考え始めた。いままでわたしは就活を「他人事」のように思っていた。希望するところに取れればそれでいい。でも違った。働くのは自分だ、自分が未来を選ばなければならない。

 わたしの自己PRは、「チャレンジ精神と責任感」と語っていた。だけれど、本当にそうだったのだろうか。根拠として並べた生徒会長は、誰もやる人がいなくて嫌々やっていただけだったし、異文化交流も逃げ出したくて仕方なかった。経歴だけ見るとキラキラしていても、私の本質は平和主義。楽しいことはやりたいけど、そればっかりじゃ疲れてしまう。本当はそんな人間な気がする。

 こんなふうにつらつら文字を書くのは好きだけれど、それで何を伝えたいかというと、特に何もない。自分だけで完結してしまっていて、その先に相手はいない。自慰のようなエッセイだ。

 ある説明会で登場した社長が、こんなことを言っていた。

「いままで君たちは、消費という立場にいた。けれど来年からは生産という立場に移動する。消費というのはお金を払う代わりに好き勝手にできるという立場だ。一方で、生産というのは、お金をもらうだけの価値を相手に提供しなければならない。すべての仕事は人の役に立つためにある。」

 私にかけていたのはこれだ、と思った。仕事の先にある、消費者に何を提供したいのか。私は、私が何をしたいか、どんなことに挑戦してみたいか、それだけしか考えられていなかった。

 そう思ったとき、ふと内定先の仕事を考えた。決して派手ではないし、給料も全然よくない。休みも多くない。けれど、誰のために何をするかはものすごくはっきりしている会社だった。だからこそ、ここに入社して、人のためになにかをするということを、無意識にでもできるくらいになれば、今はこんなにくだらないわたしも、もっと人間として素敵になれるんじゃないか。そう思った。そうしていくうちに、今は不透明なやりたいことがわかったら、その方向を目指そう。

 

 今まで、自分で決める、ということを本当にしていなかった。正直今のこの結論も、本当に正しいのか、結局就活をしたくないだけの妥協なのか、まだ判断がつかない。

 自分で考えて決めること、みんなが当たり前にやっていることが私には本当に難しかった。けれど、決められないという病にかかっていたのだと思えば、これからリハビリしていけばいい、と前向きに考えられそうな気がする。

 とりあえず、就活の定番「今までで挫折したことはありますか」という質問には、「就活です」と胸を張ってこたえられそうだ。