ハジケ。

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卒論提出と口頭試問と

 

大学4年間の学問を締めくくる卒業論文

文学部に所属する私もこの一年間ソイツと戦ってきたわけですが、昨日ようやくその重しを下ろすことができたので、一生に一度しか経験できない卒業論文について備忘録を残しておこうと思う。

 

率直な感想としては、「こんなもんか」といったところ。

皆がいうほど大変ではなかったし、あまり頭を悩ませることもなかった。

提出し終えるまでは。

 

テーマ自体は3年の終わりには決めていたし、あとはテーマに沿って基盤となるべき先行研究を調べて、データを収集して分析を行っていけばなんとかなる。そういう見通しがサクッと経っていたからあまり焦ることもなかった。順調にコツコツ作業をこなしていったかんじかな。

ただ、余裕を持って取り組んでいた割には、「いい論文になった」とは正直言い難い。

 

反省点がいくつもある。

①先行研究に対して真摯に向き合えていなかったこと

②テーマに対して「どうしても明らかにしたい」という気迫がなかったこと

③研究の前提や考察についての思慮が浅かったこと

ざっとまとめるとこんなところ。これだけでもウウウと胸を押さえたくなる心地がするけれど、こんな機会はそうそうないので経験を蓄積しておこう。

 

自分と向き合う記録として、1つ1つを言語化していく。

 

 

①先行研究に対して真摯に向き合えていなかったこと

これが私の卒論における最大の反省点。自分の論文を裏付ける証拠としても、どうして自分がテーマに興味を持ったか、どこに疑問を感じたのかを明確にするためにも押さえておくべき先行研究。そうでなければ、自分の研究に何の意味があったのかを端的示すことができない。研究の歴史を上から並べて、引いた矢印の一番下に自分の論文を位置づける必要がある。ここまではわかっている、ここがわからなかったので本論文にて明らかにする、というように。

 

しかし、私は先行研究をしっかりと読むことができていなかった。「読んだ内容を理解・吟味して自分なりの言葉でまとめて説明する」。これが一番大切だったはずなのに、先行研究をまとめた文献からのことばをほとんどそのまま利用してしまっていた。

疑問を解明するために「既に明らかにされたこと」を理解し、自分の中へ取り込む。

きっと、これが卒論で一番学ぶべき姿勢だったんだと思う。生活に仕事の中で、自分で改善点や疑問点を見つけ出し、その解決の為に適切に知識を身につける。今後、一生活かせるであろう真摯な姿勢。私はそこを手を抜き、サボってしまっていた。これでは、引いてきた事実が本当に正しいのかを自分で考えないまま、人の受け売りの知識を偉そうな顔で語る愚かな人間になってしまいそうだ。

折角の貴重な機会を活かしきれなかったことが本当に悔しい。ただ、同時に「できなかった」と認識できているということには少しの安堵を感じる。私も、手を抜いてしまった部分もあったけれど、自分なりに卒論と向き合った証拠だと思うから。

 

②テーマに対して「どうしても明らかにしたい」という気迫がなかったこと

なんというか、これは”私”全般に言えることかもしれない。

何をやるにしても、全身全霊で取り組んだことがないような気がする。「絶対」これを達成する!「どうしても」あれがほしい!こういう、燃えるような原動力が基本的に欠けている感じ。

受験でも就活でも、「絶対にここに入る」という強い意志を持ったことがない。「ここがいいなあ」「こうなったらいいなあ」というゆるゆるとした願望だけをもっていて、腹を括るとか覚悟を決めるとかが苦手過ぎる。これはきっと、緩く楽しく生きてゆきたいというポリシーには合っているんだろうけど、たまには命を燃やすような瞬間があってもいいんじゃないか。そんな人は格好いいと思う。

 

閑話休題

卒論のテーマについて、「これはいったいどういうことだろう」と常識に疑問を投げかけることができたことはよかったと思う。ただ、テーマを設定した時点での、ここまでを明らかにしようという目標が漠然とし過ぎていた。漠然としていたからこそ、「まあある程度の結果は見えたし、これでいっか」と思ってしまい、ゆる~く卒論終了。

もっと知りたいことに対して、ああでもないこうでもないと試行錯誤していた方が、ずっと有意義な経験に昇華させることができたんじゃないだろうか。ある程度の結果が出ても、「ほかにも方法はないか」と思考を続けることが大切だったんだと思う。

 

③研究の前提や考察についての思慮が浅かったこと

別々に書いてはいるけれど、これは①②の結果招いてしまった反省点だと思う。

テーマを設定した時点で、先行研究についてもっと深く調べていれば、いまだに解明されていない新たな不思議について出会い、具体的な目標設定ができていたかもしれない。今回はそれがおろそかになってしまっていたからこそ、研究の土台もしっかりしないままだったし、考察もどこまでで一旦の目標達成・論文での結論にするべきかがはっきりしないままで、解像度の低い考察しかできなかったように思う。

 

 

いろいろと反省点の多い卒業論文だったけれど、この3つをまとめるとしたら、

「物事について解決策、見解を探るためには、既にわかっていることを十分に身につけたうえで、明解な目標設定をしておく必要がある」

ということだろうか。

まさに、はじまりが一番肝心であるということを痛感した卒論だった。卒論はこれきりだけれど、この学びは大きいと思う。例えば、業務内容を改善しよう!となったときでも、「業務の意義」「現在の手順」「問題点」をしっかりと把握したうえで、「○○の手順を効率化し、5分の短縮を図る」などの目標を設定して取り組む、といったように仕事にも生かせそうな基礎的なことだからだ。4年間で学んだことを大切にしていきたいものだ。

 

 

 

さて、ひとしきり反省もしたことだし、卒論をめぐっての思い出を軽くさらっておこう。

 

題材がテレビ番組だったのにもかかわらず、結局録画機能のないテレビを買い替えなかったせいで、わざわざ姉や友人の家で録画をしてもらったこと。

家では全く集中ができなかったので、友人とコメダ珈琲でぼそぼそ言いながら卒論をしていたこと。

全く卒論がかけないと泣いていた友人に深夜に大丈夫?の電話をしたこと。

まともに見返してもいないのに終わった気になって、悠々と冬コミに参戦したこと。

提出する前に交換して見返そう、と友人とチェックしあうとボロボロのところが山ほど出てきて、風呂も食事もせずに徹夜で必死に修正したこと。

提出直前に目次の印刷がうまくいかないことに気づいて、研究室で泣きそうになっていたら関わったこともない先輩や同期が助けてくれたこと。

教務にもらった卒論のタイトルが間違ったままになっていて、受け取ってもらえないんじゃないかと肝を冷やしたこと。

留年するのかと思っていた友人が五分前に研究室を飛び出して提出しに行ったこと。

提出した後に読み返していると参考文献の文章と似すぎている個所があって、剽窃といわれるんじゃないかと思い、卒業できないと絶望したこと。

中間発表でめちゃめちゃこわかった先生二人が副査に当たり、口頭試問を死ぬほど怖がっていたこと。

実際に行ってみると教授は敵ではなく、卒論へのアドバイスを和やかに言ってもらえて20分なんてあっという間だったこと。

 

 

卒論関係だけで、こころを忙しくしていたことがこんなにあったなんて。

月並みな表現だけれど、終わってしまえばすべてがいい思い出。だからこそもっと頑張ればよかったな、なんて思ってしまうんだろうな。

 

教授が送別会でくれた、「考える土台を作った段階です。まだまだずっと考え続けてください」という言葉。私は普段、脳みそをぐるぐる回すことが少ないからこそ、この言葉を大切にしていきたい。

 

考え続けよう、人生は続くんだから。