ハジケ。

体に栄養を、心に刺激を。

どうして好きな人とデートしてるのに疲れるんだろう

タイトル通り。

最近久方ぶりに色恋沙汰をしているんだけど、好きだなとか落ち着くなって思っていても一緒にいる時間が長くなったり頻繁に会ったりすると楽しいよりも疲れるが勝ってしまう。前回もそれが原因で、この人と一緒にいる時間がもったいないと思うようになってしまったので、そうならないように自分なりに原因を考えてなんとかしたいところ。

 

いろんな人と恋愛観を話し合ってみた過程で、少しずつだけど疲れる原因が見えてきた気がする。

ざっと書き出すとこんなところかな。

・心を開くのに時間がかかる

・自分の理想の彼女像を再現しようとし過ぎる

・会話が面白くない

・そもそも恋愛関係に慣れてなくて疲れる

 

多分、下二つは一緒にいることに慣れてくると気にならなくなったり、楽しい会話ができるようになると思う。ので、問題は上二つ。

 

 

心を開くのに時間がかかる

昨日の忘年会で、随分親しくなった友達に言われたのがコレ。一見して外面がいいのも相まって、なかなか自分の素で接することがないのかも。

最初はずっと私がアタックしてたって言われて、全然その自覚がなかったのがやばいなと。自分なりに素を見せているつもりだったのに、本当の意味で打ち解けられてはいなかったってかんじかな。

だから一緒にいて疲れるし、会話も何となく楽しくない。

 

今のところ一緒にいて思うのは、パーソナルスペースが違うなっていう感覚。私は正直一人がベッドに座っていて、一人が床に座るくらいの距離感が今はちょうどいいなと思うんだけど、相手は隣に座ったり結構距離が近い。

なんだか自分の領域に侵入されている感じがして疲れる。常にスキンシップが来るかもって警戒状態になっているってかんじ。いや、そりゃ疲れますわ。

手をつなぐとかが嫌なわけじゃないんだけど、あんまり慣れていないもんだからそれがいつ来るかわからない状況は辛い。

 

そもそも一人でいても楽しい人間というか、ひとりの空間が必要な人間だから過度に干渉しないでほしいと思っちゃうんだよなあ。同じ空間にいても別々のことをしていても気にならないくらいになりたい。多分そうなればあんまり疲れなくなるだろうし。

 

素の自分でいられるくらい慣れるっていうのが一番いいんだと思う。パーソナルスペースを確保した状態で一緒に過ごす時間が増えれば、素でいられるようになるんじゃないか。今はちょっと頻繁に会うのはしんどい。週1くらいでいいです。

向こうはそう思っていないようですが。

 

 

自分の理想の彼女像を再現しようとし過ぎる

これも結局は上のやつにつながってくる気もする。

なんかこう、プレゼントを選ぶとか、相手のやりたいことを受け入れるとか、自分の中でどっかに『いい彼女ならこうする』っていうイメージがあって、自分の気持ちに素直にできているかというとそんなこともない気がしている。

 

正直に言うと、イヴにデートしてそのあとに「明日も会いたい」って言われたときは嬉しい気持ち反面、「え、明日も?」って思う気持ちもあった。だけど、まあ好き合って付き合うんだし、好きな人だったら毎日でも会いたいものだから私の感覚がずれてるんだろうなと思って了承してたし。

案の定楽しいは楽しいけど、それ以上に疲れを感じてしまって、別れて研究室にいった途端ちょっと安心してしまったという、あんまりよくない結果になっちゃった。

なんだかなあ。私は相手が何していようがそこまで関心がないし、お互いが共有したいと思ったことを共有して楽しみたいと思ってるんだけど、そこがまだうまく噛み合ってないかんじ。

 

例えば映画見ながらスマホいじるとか、一人で家で見てるときはいつもやるしあんまり気にしてなかったんだけど、わざわざ映像を一旦停止してまで待ってくれたりとか。心遣いは嬉しいんだけど、スマホを触る時間さえ許されてないような気がしてしまった。そんなに全部一緒にしなきゃいけないもんか?一緒の家にいてもそれぞれで適当に過ごしててもよくない?

 

似たようなことだけど、Twitterを教えたことで過去ツイをほとんど見られて、まあ見られるまではいいんだけど、それをわざわざラインで「こんなの見つけた」とか言ってこなくてもよくない?正直過去に言ってることとかほとんど黒歴史だし、そんなに初っ端から人の深いプライバシーに踏み入ってこなくてもいいのに。あれはちょっとやめてほしかったなあ。でもそれも「いやだ」って言えなかった。

 

”彼女”としてふるまおうとし過ぎて自分の意見とか不快感を伝えられなかったのは早く直していかないと。そりゃ一緒にいて自分でいられないと思ったら疲れるに決まってる。

 

 

まだ付き合い始めてちょっとしか経ってないのに、こんなに反省点が出てしまうとは。でも相手が悪いとかじゃなくて、多分私が自分で自分の首を絞めてるだけだから、私の接し方をなんとか変えていく必要があるな。一緒にいても疲れないように、”素”を認めていってもらわないとだ。

しかし私、パーソナルスペース広いな。とりあえずそれを伝えなきゃキツイか。

 

 

 

品性ってなにさ

なんだかふと文章を書きたくなって、いろいろと書き散らしてみたんだけれど、どうやら自分の頭を整理したいらしいと思い至って久方ぶりにこのページを開いた。

 

夜の街を歩くのは好きだ。少しずつ機能を停止していく街の中で、きだる気にふらふらと歩く。片耳にはイヤホンをして、一つの耳で行き交う車の音なんかの音を聞く。夜は、何をしても、しなくてもいい空気感が心地よい。昼間は何かをしなくては、残さなくてはならないような焦りに駆られて、そんな風に命を動かすのも悪くないのだけれど、自分みたいな人間には少し疲れてしまう時もある。夜はそんな私を救ってくれる。ベッドに横たわって、一秒か数時間かもわからない時間を揺蕩うのもいい。ぼんやりとラジオを聞き流すのもたのしい。だけど今日は、風を浴びたくなった。

 

ひと駅前から降りて、だらだらと歩いた。とりとめもない思考で頭を埋め尽くしてみたりする。

ずっと頭のどこかに引っかかっている言葉がある。誰だったか、言っていた人を覚えていないけれど、

「何を話すかには教養が必要だ。何を話さないかには品性が必要だ。」

こんな感じだった気がする。これがほんとうに耳に痛くて、思わず私のためのことばなんじゃないかと思ってしまったくらいだ。

これで言うと、私は教養はある方だと思う。人並程度には。

だけど、品性はもう、ほんとうに最悪だ。言わなくていいことを、言うべきではないかもと頭の片隅で思いながら、それでも何となく言いたくなってしまって、一度呑み下したはずのことばをえずきながら取り出してしまうことがある。

一度口を開いてしまうと、脳と口が直結してしまう。考える余地をはさまないまま、ぽんぽん言葉が飛び出して行って、向こうへ行ってしまった後にその言葉を確認して、嗚呼言うべきではなかったと馬鹿みたいに考えることがままある。これはほんとうにどうにかしなくては。

 

それと少し似ているのだけれど、身につけたいと思うことが少しばかりある。

・わきまえるひとになりたい

・不快にさせず断れるようになりたい

簡単に言ってしまうとこの2つ。

 

まず、”わきまえる”とは身の程を、というよりはTPOを、という意味合いだ。その場その場に応じてベストな仕草、雰囲気、話し方ができるようになりたい。自分の姿を客観的に俯瞰して思うのだけれど、声がでかい。あと笑い声がちょっと下品。それでいい場面もあるのだけれど、もう少し空気に馴染めないものだろうか。

空気を読めるようになりたいわけでも、空気を作れるようになりたいわけでもない。そんなのは自分の本音を度外視した演技に過ぎないと思うからだ。私がしたいのは、スイッチの切り替え。自分の持っているモードを、その場に適したものに適宜切り替える。そうして空気に馴染み、自由に揺蕩えるようになる。それが私の考える”わきまえるひと”。そんなふうになれたら、私の思う大人に一歩近づけるかなあ、なんて思う。

 

まあ、2つ目はそのまんま。ちょっとNOと言えない日本人過ぎるかなあ、ってたまに自分でも呆れてしまう。最近は自分でも気を付けているのだけれど、「バイト入れませんか」って急にお願いされたら、「すみませんが入れません」って言ってしまうのをやめたい。どう考えても私に落ち度はないし、「すみません」「申し訳ありません」ってそんなに軽々しく使っていたら自分の価値を自分で下げてしまうような気がする。

「すみません」の代わりになるようなクッション言葉があればいいのだけれど。どうしたら相手を不快にさせずに断れるようになるのだろう。もっというと、断ってしまったという自分のもやもやした気持ちもなくなるような断り文句を考えられればもっといいよなあ。

 

こういう少しの気づきが、品性ってものにつながっていけばいいのに。とりあえず私は何も考えずに言葉を使うのをやめた方がいい。迷ったら、言わない。特に、人のプライバシーにかかわったり、自分一人で完結するような話でない場合は気をつけなければ。信用を失うのは一瞬なんだから。口は禍の元。

 

なんてことを、久しぶりにじっくり考えた。やっぱり夜の散歩はいいなあ。頭が透明になる。

 

ニュージーランド留学のまとめ🇳🇿

2019/08/17…08/31

ニュージーランド短期留学。

夏休みを利用してたった二週間だけの留学。海外に住んで勉強するという経験をどうしてもやってみたくて、就活不時着後、憂さ晴らしをするように決めた。二週間とは思えない充実した日々と、現地に馴染む自分の適応力の強さ、国も文化も違っても同じもので笑えること、人生の生き方は無限にあること。実感できたことがいっぱいあったし、だからこそ自分の生き方を決めることの難しさに袋小路に入ってる。一つだけ確かに言えることは、たった二週間だけど、ほんとうに行ってよかったってこと。

 

脳に刻み付けるために、思い出深かったことを記しておきたい。

 

まずは今後に生かしたい失敗談から。

 

失敗① WiFiのレンタル

今回の留学に備えて、二週間ほど前に"WiFoo"でWiFiのレンタルを予約しておいた。渡航前から帰国後までを含めて15日間で3500円程度。しかし、ここで私のどケチ精神が火を噴いてしまった。

 

「ん?待てよ…WiFiを利用している期間なんだからニュージーランドに着いてから発つまででよくない?そしたら13日間じゃない?」

 

よくないよくない。その機械自体を借りてる期間だから。電波拾ってる期間じゃないから。

だが正気を失った私はそのまま13日間で登録。確認をとることもせずに間抜けにも空港へ向かったのだった。

案の定機械を受け取れず、まずキャンセル料2000円ほど持っていかれる。さらに当日でも借りられる機械のレンタルで17000円ほどが消えていった。

馬鹿なのであった。

 

今後の教訓☞変なところでお金をケチろうとしないこと。せめて問い合わせて確認をとること。

 

 

失敗② 留学先の情報の確認不足

自分の甘さを痛感するところではあるんだけれど、到着して次の日からの学校が、どこで何時から始まるのか全く把握していなかった。着けばなんとかなるだろうと思っていたし、学校に通うということをあんまり考えていなかった。

とにかく『留学』をしたいと思っていて、海外に住み学校に通って勉強するという中身を見ずに、ラベルで購入したって感じだ。レッテルだけみて相手を決める婚活女と何も変わらない。中身をしっかり考えよう。

 

幸い、アコモデーションに日本人ちえみさんと、日本語ペラペラの中国人ちょうさんがいたからバスの場所を教えてもらったり、どれだけかかるか考えてもらったりできたけど、あの二人がいなかったら私絶対学校までたどり着けなかった。ぽ、ぽんこつすぎる…。なんだコイツ、ほんとに社会人になれるのか…?

 

日本にいる間に、滞在先の場所、学校への行き方、バス停の場所、学校の始まる時間をしっかりと確認しておくべきだった。今回利用した留学エージェントのスマ留は、格安で留学を実現させてくれたけれど、だからこそ向こうからの手厚いサービスを期待するのではなく自分でちゃんと考えて質問しなければならなかった。

 

今後の教訓☞事前確認はしっかりと。気軽に助けを求められないからこそ、自分ひとりでできる状態にしなければならない。

 

 

失敗③ 留学でしか出来ない経験を自分から求める

これは失敗というか、たまたま上手くいったからこそ感じる部分。私はニュージーランドの観光地とかお土産とかは調べて行ったけど、実際学校帰りにそんなに自由な時間なんてない。

朝から昼下がりまでは拘束されるから遠出なんて出来ないし、何も予定を入れなければショッピングをしたり図書館で勉強するくらいが精々。そしてこれは別に日本でも大して変わらない。

だからこそ現地であった日本人の人達は自分から異文化に体当たりしてた。

meetupで現地の人達と交流したり、保育園のボランティアに行って海外の保育を体感したり。

自分から求めないと出会いなんてない。それは海外に環境を移しても同じこと。

 

私はたまたま、滞在先の人と仲良くなって色んな繋がりができたり、一緒にクッキングしたり、日本ではしづらい体験をできた。だけど、オークランドの図書館で漫画読んでた日も多かったから、もっと自分から求めることも出来たのかなとは思う。

 

今後の教訓☞自分から動かなければ出会いなんてない積極的に挑戦することはどこでも大切。

 

 

失敗④ 時間に余裕を作らなかったこと

これが一番の失敗かもしれない。今回の留学は夏休みを使ってねじ込んだものだから、到着した次の日から学校で、卒業した日の夕方にもう空港へ向かった。ほんとうに慌ただしい日々だった。

学校に通っていると予想以上に時間が無いし、折角ニュージーランドにいるのに雄大な景色を楽しむこともほとんどできなかった。特に、オークランドのある北島には行けたけれど、観光地の多い南島には全く行けなかったことが心残りだ。

学校が終わったあとに一週間ほどニュージーランドを旅して回ればよかった。時間のある学生の夏休みなのに勿体ないことをしてしまった。

 

今後の教訓☞何事にも時間に余裕を持とう。留学先を旅して回る時間も作った方が楽しめる。

 

 

さて、失敗談はこれくらいにして今度はまたやりたいことについて。

 

よかったこと① 誘いを断らなかったこと

滞在先の友達からのお誘いを断らず、一緒に楽しんだこと。これは本当によかった。現地で友達をつくって一緒に出かけるなんて、旅行じゃほとんどできないし、移動中も英語の勉強になった。

お誘いを受けて参加したのは、

・ちえみさんとちょうさんとお買い物(初日)

・Evaとコーヒーブレイク(四回ぐらいいった)

・Evaのおうちにお邪魔。娘のガブリエラと息子のアトラスと話した。(1周目の金曜)

・JohannaとYesminとブラジリアンパーティ

・ちえみさんと図書館で勉強(2日目)

・チリ人のFerと日本人たちでWaiheke island(土曜日)

・accommodation でちらし寿司、ピザパーティ(日曜)

・ブラジリアンパーティで出会ったAdnanに誘われて日本語meetupに参加(2週目月曜)

・ちえみさん、ちょうさん、ゆかちゃんでニュージーランドの映画館で天気の子の視聴(1周目木曜)

・ちえみさんたちとオークランド大学で大使館主催の風立ちぬを見た(2週目木曜)

書き出しててびっくりしたんだけど死ぬほどリア充じゃん。これにプラスして学校通って、ひとりでTakapunaとかSundaymarketとかPonsonbyとかDevonportも散策しに行ったし、暇な時は図書館で漫画で勉強してた。すごい、二週間ってめっちゃ時間ある。結構ゆっくりしてた気がするんだけどなあ。

 

特に印象深いのは、やっぱり異彩を放つブラジリアンパーティかな。

まず学生が集まるパーティーに行ったんだけど、もううるさすぎて隣の人と話も出来ないくらいガンガンにミュージックがなってる。いろんな国籍の人がひしめき合って、ビールを飲んで笑って、映画の中の世界に入り込んだみたいだった。

残念ながらリスニングがしょぼすぎる私は、音楽のうるさい所で聞き取れるはずもなく、会話に参加できずしょんぼり。

たまたま日本人のワーホリの子が声をかけてくれて、日本語でぽつぽつ話をしてた。その時に知り合ったのがAdnanで、この出会いがあったから月曜のmeetupに参加することになったと思うと、巡り合わせってすごいなあ。

所在のない私は正直もう帰りたくて仕方なかったんだけど、JohannaとYesminに今日だけだから!ワンナイトだから!と押し切られ、ついにブラジリアンパーティに場所を移すことに。真っ暗なダンスホールに、ネオンカラーが弾ける。その中央に陣取るDJが次から次へとミュージックを鳴らしてた。それに合わせて、顔も名前も国籍も知らない人たちと体を揺らし、リズムを刻む。最初は恥ずかしくて何も出来なかったけど、これ踊ってる方が楽しいし楽だわと悟りおしりを揺らして踊ってみた。思ったより楽しかったけど、背後で私の腰を抑えるように合わせて踊る青年がいて、隣では濃厚なキスを交わす男女がいて、私のキャパ以上に性的すぎる場。映画の中に入ったみたいで楽しかったけど、私には合わないかな。背伸びしすぎた。

 

まあそんな感じで、私一人だと絶対にしなかったことが出来たのはとても貴重だったな〜と思う。一緒に時間を過ごすことでいろんな人と仲良くなれたし。

 

よかったこと② ニュージーランドの日常生活を知れたこと

スーパーで野菜を買い自炊をしたり、バスに乗って通学通勤を体感したり、映画館で遊んでみたり。

旅行ではしない、その地に足をつけた生活の一部を感じることが出来た。

やってることは日本とあんまり変わらないな〜と思って、どこの国の人でも同じように生きていると思えたり、逆に日本ではこれは無いよなあとか思ってみたり。

食事、料理、仕事、学習、大元は日本でやっている事と何も変わらない。だけど細かく見ていくとやっぱり違いはいっぱいあった。

例えば仕事で言うと、

・携帯を見ながら仕事してる

・フェリーのおじさんは座席に座ってお菓子食べてた

・パーティーがあるから帰っていい?とか普通に言う

っていうのがあった。仕事を美徳とする日本とは全然違うなあ、ってかんじ。客側もしゃあねえなっていう雰囲気あるし、私は日本の求めすぎる雰囲気よりもこっちのほうが楽だなあ。

学習で言うと、留学先の学校ではみんな先生に聞かれてもないのに答えを言っちゃうし、わかったらアピールしたくて仕方ないみたい。抑圧される雰囲気があってても挙げられない日本の授業とは違うなあ、って。

 

なんというか、全体的に人が何してようが気にしないっていう雰囲気がある。道で寝てようが、ハーモニカを吹こうが、女装してようが、キスしてようがどうでもいい。人のことを話す時間なんてめんどくさいって感じ。だからといって冷たい訳ではなくて、転んだ人には体を支えてあげたり落としたものを拾ってあげたり、やさしい人が多い。

 

というか、ニュージーランドにいて特に困ったことは無かったんだけど、仕事にコン詰めているような人もみないし、日本よりも人口も全然少ないのに、どうやって経済を回しているんだろう。

どうして日本人はこんなに働かなくちゃいけないんだろう。なにが違うんだろう。

 

やっぱり世界を知ることは大切だね。世界の制度とか働き方とかを知って、もうちょっと楽しく働ける社会になったらいいよね。

 

覚書

今日ふとバイトをしながら思ったんだけど、私がいままで応募してきた企業を並べると、

・広告

・放送

・新聞社

・印刷

・生協

・旅行

こんなかんじで、ここに興味はあった

・県庁、市役職員

・セキュリティ

を加えると私のやりたいことの根底が隠されていた気がする。

どれも、地域の人に対して価値を提供する仕事。さらに言うなら、「地域をより良くする仕事」だったんだなあと今更感じ入る。

やりたいことが分からないようって思ってたけど、自分が思ってる以上に自分のやりたいことは明確だったのかも。

せっかく地元に帰るなら、地元を楽しくしたい、そこに住んでいる人も楽しく暮らせる街がいいという気持ちが強かったんだな。

予想以上に自分がいい子でびっくりした。小さい頃から押し付けられて生きてきたと思ってたけど、自分なりに納得して自分から引き受けてたのかもなあ。

まあ大袈裟に言うと人生の目的は故郷の活性化にあるとして、それはそれとして私は旅行も行きたいぞ。

最初の就職先として、方向性に間違いはないと思う。だけど、目的に対する手段とかはもっとクリエイティブにしていきたいなあ…。多分そこが引っかかってるのよね。

とりあえずは、旅行も行きたいし街の活性化もしたいということなので、

数年生協で務めてお金を貯める

新卒枠で公務員試験を受けて内定を貰う

入社までの期間に海外放浪

公務員として転職、街の活性化へ

という人生設計にしてみようかな。最初から公務員になるのはちょっとつまらないなと思っていたし、実際に暮らしている人達の顔が少しでもはっきりわかってから公務員になった方がやりがいも強いはず。

予想以上に自分の地元愛が強くてビビってるぞ〜〜〜〜。

寂れてくの悲しいぜ。

せっかく住むなら楽しい街にしてえ。

2019/07/20,21 京都&大阪めぐり


突発的弾丸旅行withのがみん第二弾。
今回は京都、貴船神社です。

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公園でビールを飲み、深夜まで丸一日駄弁っていた日に、「そうだ、貴船神社に行こう」と相成りまして、少し大阪からは遠い立地なので一泊してみることに。京都旅行といえば日帰りだったけれど、あえて一泊するところに浪漫があるのです。

9:00 阪急石橋駅に集合。
相変わらず遅刻をかましてしまい、足早にホームへ向かうとのがみんはすでに待機中。申し訳ねえ……。
早速電車に乗り込み、阪急電車に揺られる。
石橋→十三→河原町。なかなか長い道のり。京都線は全然座れなかったけれど、大丈夫です、若いので。

そして京阪電車に乗り換え。
祇園四条出町柳
さらに叡山電鉄に乗り換えて、
出町柳貴船口
片道2時間の道のり。長いけれど、運賃は1100円と一泊二日の旅行にしては滅茶苦茶リーズナブル。京都だとやっぱり安いね。

普段からよく乗る阪急電車は、車内の色合いも落ち着いていて、乗客も基本的にはマナーがよく品のいい感じがするんだけど、京阪、叡山と遠のくにつれて少し古ぼけた生活感の溢れる様相になっていくのがなかなか面白い。
特に叡山電鉄は、ちょうど老人会の慰労旅行っぽい集団とともになり、楽しそうに会話を交わすおじいちゃんおばあちゃんにほっこり。のがみんのいう、「自分の非日常で日常を送っている人の空気を感じるのが好き」というのが私も少しわかってきました。

11時ごろ、貴船口に到着。お昼前だからか観光客の数が非常に多く、駅から神社に向かうバスは国際色豊かな人々ぎゅうぎゅう詰め。満員電車とか乗らないから結構きつかった。坂道だから揺れるし。

そしてバスが到着!
雑音のない神秘的な山道に、思わず世界の車窓からみたいな口調になってしまいそう。
眼下一面に広がる緑と、神社へと続く一本道。雨が降るか降らないかぎりぎりの曇り空だったからか、葉にはまだ滴が跡を残していて一層生い茂る。遠くで鳴く蝉の声がいつの間にか来ていた夏を知らせてくれる。
河原町なんかとは違って、人もそんなに多くないし、全身で吸える空気がおいしい。

ほとんど朝ごはんを食べずに来ていたから、車内で目をつけていたランチを探して歩く。だけど、道なりに進むうちにかわいいおばあちゃんに手招かれ、ついつい寄って行ってしまった。
学生にはお高いからと諦めていた川床料理が、3000円のお弁当で食べられるのだそう。一瞬のがみんとアイコンタクトで相談。入店を決めました。おばあちゃんかわいいし。

貴船神社は水の神を祭ってあるらしく、近くには大きな川が流れている。その川の上に木を渡して茣蓙を引き、食すのが川床料理だ。
すだれで作られた壁に沿って階段を降りると、一気に足の下を流れる水の音が近づいた。頭上には日除けらしき藁の屋根。蔦が張っていて風情がある。

私たちが頼んだのはお昼のお弁当。3240円。
二段の重箱を開けると、とろろやら鯛の刺身やら。名物のそうめんも。このそうめん糸かと思うくらい細くて、触感が非常に繊細。なんだか上品な味。
湯葉の煮込みをのっけたお茶漬けも、お酢を垂らして食べる鮎の塩焼きも、古き良き日本食といった感じで体に馴染む。ちなみにこのお酢、蓼酢というらしい。蓼食う虫も好き好きの蓼だ。すっとこういうのが出てくるあたり、私たち頭良っ。

食べ過ぎないくらいのちょうどいい量。ごちそうさまでした。

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店を出てまた歩き始める。少し上ると、雰囲気のいい雑貨屋さんが空気に馴染むように開かれていた。ふらふらと寄ってみると、並んでいる雑貨の数々も品がよく、遊び心もあってめちゃんこかわいい。なにより学生でも買えそうな値段というのが最高。
荷物が増えそうなのでいったん下見だけにして、またあとで立ち寄ることに。

登山続行。しばしして、今回の目的地である貴船神社に到着。赤い鳥居をくぐったら、臙脂の灯篭が上へ向かって並んでいる。パンフレットでよく見る光景だ。お昼という事もあって人が多く、なかなか堪能とはいかなかったけれど、これはこれで活気があっていいかも。

今回は忘れずに持ってきた御朱印帳を預けてから、参拝へ。まずは水の神様という事もあって、水占いという少し変わったおみくじから。受け取った白紙を水にさらすと、文字が浮かび上がってくるという不思議な占い。油を塗ってはじいているのかしら。

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結果は吉。全体的にいいことばかりで大勝利。ただ、勉学は努力すれば吉、とのことなのでそろそろ卒論どうにかしないとやばそう。まあぼちぼちやろう。
鐘をがらがら鳴らしてお賽銭をいれてお参り。
結構いろんな国の人がいて、占いもQRコードで翻訳できるようになってた。なかなか賢いやり方。

ゆっくり楽しんだあと、さらに奥宮を目指すことに。本宮から奥宮の間に旅館や飲食店が多く、坂道という事もあって結構きつい。到着すると、さらに奥まったところにあることもあって、人気がさらに薄くなり、神域の雰囲気を感じる。連理の杉や相生の杉といった植物の息吹もあった。

坂道を下りつつ、気になっていた「豆腐ソフト」の昇りのお店に入る。食券を買って、豆腐ソフトクリームを手にした。甘すぎず、後味が予想以上に豆腐の柔らかい味がしてなかなか好きな感じ。私たちが入った後に、中国の家族連れが入ってきてにわかににぎやかに。

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ここまでゆっくり貴船を楽しんで、まだ午後2時。朝から動くと一日が長くてびっくりする。最近昼に起きてたし。

せっかくなので鞍馬の方まで行ってみることに。貴船から鞍馬まで約40分ほどのハイキングコース。

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森の中へ踏み入って、ひたすら階段を上る。足元は昨日の雨もあってどろどろで、お気に入りの靴が少しずつ茶色に染まっていく。私は前にも熊野古道を歩いたことがあるからまだ大丈夫だったけれど、のがみんは本当にしんどそうだった。
でも、一番最初の道が一番きつかったみたいで(というか私たちが逆走してたからきつかっただけ説濃厚。鞍馬→貴船のほうが楽みたい)、魔王殿というところまでついてしまうと、あとは平たんな道で助かった。

鞍馬山を一通り歩きとおしたけど、自然を歩くこともさることながら看板を読みながら行くのが楽しかった。木の根道とか、息つぎの水とか、源義経の逸話の聖地だからかかっこいい名前が多かった。

f:id:hsk10_213550:20190729014312j:imageあと、岩や石の説明も多かったんだけど、閃緑岩とかペルム紀とか受験期を思い出すワードが出てきて懐かしかったわー。
でもこんなんで盛り上がるのは多分のがみんといったからだろうな。これだから教養のある人間は好きだ。

あと山道を歩いているときは人との距離が近くなっていい。すれ違いながら「こんにちは」って言いあうのとか、山ならではの空気感があっていいなあ。なんていうか、山を歩いている人、という以外になんのレッテルも張り合わなくていいから楽なのかも。

森の小道から一気に開けたところに、鞍馬本宮があった。

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朱色の立派な本宮に参拝。ついでにトイレによりつつ、しばし休憩。建物の隅に腰を下ろして手帳を見つめるお姉さんが絵になりすぎててよかった。

さて、一泊二日なのに時間が濃ゆすぎて文字数がすごいことになってきたぞ。巻き巻きでいきます。

鞍馬本宮を出て、駅まではケーブルカーに乗ることに。地下のホームへと向かうと、ケーブルカーの到着を待つ子供連れのお母さんがいてほっこりした。

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やがて時間になり、切符を渡して搭乗。小さなケーブルカーだけれど、運転士のお姉さんもかわいくてなんだか穏やかな時間だった。

鞍馬駅の周辺までつくと、境内を出たところに「趣味の店」という看板を掲げるお店を発見。店番のおじいちゃんが暇そうに団扇を仰いでいる。ネーミングの思い切りの良さについ吸い寄せられて入店。ヘリコプターやオートバイの木工模型があって、その作り込みの手厚さにびっくり。ちなみに別におじいちゃんの手作りではないらしい。なんやねん。

「なんか面白い写真取れたか?」と話しかけられ、おじいちゃんに近くの桜をすすめられた。行ってみると、桜の折れた木のなかにカシ(だったかなんだったか)の種が落ちてそこから芽吹いたらしく、二つの木々が共存していて神秘的だった。なんなら貴船神社の連理の杉よりも連理してるくらい。

このへんはやっぱり、天狗が伝承されている地だからか、どのお店を覗いても大きな天狗の顔が壁に取り付けられているのが印象的。その中の一つに入って、小腹がすいたので美味しそうなヨモギ餅をぱくり。口内に引っかかる葉の感覚が、自然のモノを使っている感じがして素朴でよかった。

では温泉へ。汗もかいたし「くらま温泉」へ行こうと地図で調べて歩き始める。ふと気になって、そういえば入場料いくらなんだろう?と調べると、ここが大誤算。なんと2,500円。
値段を知ったのがみんは冷静に「2500円かー、どうする?」と聞きながら、足だけはすでに駅へと引きかえしていた。だから私もそうやなあ、といいながら踵を返した。

再びの叡山電鉄。もう5時くらいになっていたから、貴船へと戻って七夕のライトアップに備える。

閉店時間ギリギリに、目をつけていた雑貨屋さんに滑り込み物色。イヤリングも食器もかわいくて、私はいい匂いのする石鹸を買うか迷った結果、結局何も買わなかった。のがみんはふぐのお茶碗を買っていたんだけれど、まるまるしてて本当にかわいかった。
大満足の買い物を終えて、日が暮れるまでどこかで時間をつぶそうと山道を登る。

昼に見つけていた喫茶店。閉店中。
バカ高かった飲食店。閉店中。
休める場所を探しているうちに、いつの間にか奥宮までついてしまっていた。なーーーーーんにもない。ここが地獄か。

結局奥宮の湿気のあるベンチに腰かけて時間をつぶすことに。あまりに暇すぎて、俳句を読もうという事になり、ここで一句。

そうめんに 英世とらるる 負け戦
息切れて 手すり求むる 荒れ野山 峠超えれば 〇〇〇〇〇〇〇

2句目は結句がどうしても思いつかなかったのでお蔵入りである。悔しい。
なんだかおばあちゃんちの夏休みみたいな懐かしさを感じつつ、耳を打つ水のせせらぎと蝉の声に癒された。

そしてとうとう七夕のライトアップへ。
お昼も見た灯篭だけれど、ほのかに明かりが灯されると温かみがあって雰囲気が全然違う。人も少なめなのでポージングをして連射。ほぼ動かしてないインスタに乗せなきゃ。

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夏祭りのあとのような、お盆のゆったり流れるような、そんな穏やかな時間。ライトアップされてきらめく短冊のなかに、私たちも願いを託した。

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私は「めちゃくちゃ楽しい夏休みになりますように」
のがみんは「素直に生きます」

正直なところ、人生に対して断言で挑むのがみんの姿勢がうらやましい。私は夏休みというわずかな時間でさえ、なりますように、と他力本願だ。まあ、めぐりあわせの中で幸せを見つけるのが私の生き方なのかもなあ。

ベンチに座って、行き交う人々を眺めつつ、ちょっと人生相談とかしちゃったりして。とにかくまったり過ごした。京都のTHE観光地、みたいなところよりもよっぽど私たちが思い浮かべる「日本の夏」があった。最高。

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心行くまで過ごした後は、バスと電車を乗り継いで本日のゲストハウス、和楽庵へ。神宮丸太町で降りて、夜も更けた街を歩く午後9時。
宿の人も仕事を終えていて、玄関に紙が張り付けてあった。中へ入ると、昭和レトロな雰囲気漂う小さな木造の家。共有スペースから見える庭が、模範的な縁側でをかし。

荷物を置いて、さすがにお腹がすいたので近くにあったから船屋へ。パフェのイメージしかなかったけれど、デミグラスオムライスめちゃおいしかった。食後に抹茶パフェも半分こして、お腹いっぱい満足満足。

宿のシャワーはちょっと頼りなかったので、近くの銭湯までいくことにした。平安湯、という銭湯で、5つほどお湯があり予想以上に楽しめた。ゆっくり湯につかるのって本当に最高だ……。

もう5000字くらい書いているのに、まだ一日目しか書いていないのに驚き。それくらいほんとうに濃ゆい一日だった。おやすみなさい。

お金のはなし

前回、就職先を決定したような口ぶりで語っていたけれど、実はいまだに悩んでいる。なんとなくここではないような気がしていて、かといってもうスーツを着ることもしていない。ある日ふと、誰かからしかるべき就職先を与えられるような気がしているのが本当に甘えたで何も変わっていないことに愕然とする。

4月5月の手帳を見返してみると、本当に就活生か?と思いたくなるほどスッカスカで、しかもひとつひとつの企業について調べることもろくにしていなかった。むしろ、この状況で一つ内定をもらえていることに驚きだ。感謝しかない。

そう思う一方で、いまいち納得していない自分がいるのも事実……。かといってやりたいことも今は見つからず、仕事をしながら探していこうという考えもある。

あーあ、めんどくさいしくそみたいな人間だな。プライドだけぐんぐん育ちやがって。

 

さて、現状と自己嫌悪はここまでにして。

今日はお金について思うところがあったので、残しておきたい。

 

先日、高級肉を食べる会をしたときに、ぴえこが「結婚相手は年収の高い人がいい」と言っていた。正直なところ、私は年収で相手を決めるようなことにはあまり賛成しない。けれど、その理由を聞いてみると、

「昔、家にお金がなくて大変だったから」

と言っていた。

 

思い返してみると、私は生まれてから今まで、お金で困ったことがない。非常に恵まれた家庭に生まれたおかげで、お金を理由に何かを諦めたことも、人が争う姿を見たこともない。

私にとって当たり前にあったものだからこそ、私はお金の「本当の価値」を知らないんじゃないだろうか。

お金がなければ生きていけない。お金があるからこそ余裕をもって暮らしていける。

知識としては知っていても、圧倒的な体験不足だ。

 

私が生きている今は、すべて親の援助によってできている。私が大学まで通えているのも、一人暮らしの部屋で悶々と悩めているのも、鞄、化粧品、バイトに行く余裕、旅行を楽しむじかん、健康な体。

そのすべてが両親が与えてくれたものだ。

かなう気がしない。

 

今まで、両親に対して「感謝のことば」は時折述べてきた。

母の日、父の日、卒業式……。だけど、私を構成するものは私にとって当たり前にありすぎて、その実感、本当の感謝は多分いままで一度もしたことがない。

 他人に感謝して生きること。

この当たり前のことが全然できていない未熟な人間だ。

正直、就活で頑張れなかったこと、納得できる内定をもらえなかったことはいまだに苦しいし、出来るならば去年の今頃に戻りたい気持ちでいっぱいだけれど、こんなふうに社会のことやお金のこと、両親のこと、家族のことにしっかりと向き合い始めるきっかけとなったという意味では、この時間は無駄じゃなかったんだと思う。

 

私のあたりまえを支えてきたお金は、お父さん、お母さんが毎日働いて稼いできてくれたからこそあるもので、私がやりたいことをやれていたのは素敵な家族に恵まれたから。最高の環境を提供されていたから。頭が上がらない。もっと、恩返しをしていきたい。

 

私が来年入社する会社は、給料はあまりよくない。

この給料という項目にあまりマイナスイメージを持たずにいれるのも、きっと両親のおかげだろう。

どんな会社に入ったとしても、初任給でみんなにおすしを食べさせてあげたい。いつもは食べさせてもらう側だったけれど、少しずつ私も何か与えられるようになっていきたい。

 

考察厨ふたり

 昨夜つらつらと書いたエッセイにある通り、思考する練習をしたいと思ったので日常のあれこれについて考えてみる。

 

 今日は、幼馴染tと友人pを引き合わせた。前々から話し方や物事への興味の持ち方、思考の癖が似ていると思っていた二人だ。なんだか数学の文章題のようになってしまった。

「はじめまして、よろしくお願いしますー」

と初対面の儀式をぎくしゃくしながら済ませていたのは少し面白かった。

早速居酒屋に移動して、乾杯。

 

 きっかけとしては、現在も放映中の「プロメア」について語るということだ。

tはプロメアの監督作品を随分前から追っていて、熱心なファンだったからこそ語る相手を探していた。そしてpもいつの間にか劇場まで見に行き、どっぷりとはまってしまっていた。両方の知り合いであるわたしが、面白半分によく「語りたがる」二人を引き合わせた次第である。

 

 さて、とpが口を開く。

「人工呼吸するシーンが2回あったけど、あれって何の比較?なんの意図があるの?」

初っ端から細部に切り込んでくる。

「愛があるかどうかの違い?そのあとの爆発シーンもハートを模してたけど」

え、そうでした?

 

話を聞きながらそうだったかなあと、私が記憶を探っている間に、tもpの提示に乗りどんどんと議論を深めていく。

 

プロメアは差別を描いた映画なのか。確かにガロの「バーニングも飯を食うんだな」発言は差別だったけれど、あれはのちのちのガロの意識の変化を描くための意図的な提示に過ぎない。最終的には悪役のクレイも助けられるところも含めて、差別ではなく、全員のことを肯定するのが根底にあるのではないか。

例えば、リオの中性的な外見や、軍人の小人症について不自然なほど触れないように、外見的な要素からくる差別発言は徹底的に除かれていた。現代の映画として素晴らしい態度を示した。

 

もうね、議論が止まらないとまらない。二人は初対面なのに、どんどん私を置いて二人で話を進めていく。

傍で聞いていて、「あ、たしかに」とか「あれにはそういう意味があったのか」とか理解することはできる。だけど、同じペースで「あの表現ってどんな意味があるの?」と疑問を投げかけることはできなかった。

 

基本的に映画を見るときも、そのときそのときの自分の感情とか、ストーリーとして面白いかどうかとか、良くも悪くも娯楽として楽しんでいるに過ぎないんだろうなあ。ふたりみたいに、映画をきっかけにして思考を深めるとか、ちゃんとした刺激として生かせていないんだろうなあ、と自分の脳みその硬さを反省。

 

私も話題提供者になりたい、と思って「クレイの左腕が生えてきたのには何か暗示があるのかな」と言ってみた。二人とも困惑した表情。いやあ、あれはバーニングだから生えてきただけであって……。と解説を始める。いやそれくらいわかってるよ。

二人曰く、クレイの「間違い」の象徴である左手の義手を外して、バーニングとしての力を開放して再構築した。それって、今までどこかにあったガロへのうしろめたさを振り切って、力づくで「間違いではない」ということにしたいクレイのいしがあったんじゃないかなとか思って、降ってみたんだけれど。

まあよく考えてみたら、私別になにひとつ新しいこと言えてないか。なんとしてでも押し通す、っていうのは映画見てれば分かることだし、それをちょっと言葉にしてみただけに過ぎないかも。

あとは話の振り方とか、私の説明の仕方も拙かったかな。実際の場ではここまで整然とクレイの左腕について話せなかったわけだし。

 

途中でふたりが映画を見ているときのスタンス的な話もちらとしていたんだけれど、

「映画を見ながら常に考察をしてしまう」

という事で一致していた。すごいなあ、と素直に感嘆。私は映画を見るときは、基本的に与えられるところしか見ていないし、話を理解するというそれ以上に考えようとはあまりしていない、気がする。

 

映画とかアニメとか、それを通して伝えたいことって絶対何かしらはあると思うし、娯楽として受け取るだけではちょっと損をしているのかもしないと思った。映画としての面白さだけではなくて、その余白まで自分で絵をかいて楽しむ、というか。そういうところが二人にはあると思う。

 

「考察厨だから」

と自虐的に語っていたけれど、そう思ってしまうくらい自然と思考を回せるって言うのは本当にすごいことだと思う。

考察厨になりたい、とは言わないけれど。こういうときに疑問を提示して自分の意見を述べられるようになりたい。多分そのほうが、何倍も映画を楽しめるはず。